いらっしゃい、店長ですみません。

2018年5月5日より新高円寺にオープンした水道橋博士のお店「はかせのみせ」の店長日記。

闇は深い

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アマゾンプライムダイナマイト関西が見れるようになっていた。それはある人から、「微々たる額でしたが、入金がありました」と聞いていたのが昨年末の出来事。それで覗いてみると確かに配信されていた。2003年の府立のダイナマイト関西はボクが進行役で出てるのに、何の話もなかったなとひっかかっていたんです。

それで今日アマゾンプライムを覗くとNETAJINが見られるようになっていた。というか、これまでの吉本の芸人のDVDのほとんどが見られる状態にあった。それはそれで嬉しいことで、これまで購入に至らなかった方でもアマプラ会員なら見れるので、見てみようかとなるから喜ばしい事だ。

NETAJINは当然ボクは映像の制作でネタの映像を作って、イベントではオペレーションもしていて、そこまではまぁ裏方の仕事ですから、何も今更いうこともないんですが、4作目の韓国のヤツには映り込んでいるというか、映ってるんですよね。通常こういう場合はDVDの時点ではパッケージになる事を理解した上なので問題はないんですが、とはいえ厳密な契約書を交わしている訳ではないので、例えば再販時には再度確認いただくとか、そういう取り決めもないままに販売されてるのが現状ですが。それが配信となると、これは再販とかパッケージレベルの話ではないので、せめて一言ほしいよなと思ったので、スグに陣内のマネージャーに連絡して、どうなってますかと聞いたわけです。ダイナマイト関西の件も含めて。すると、

 

ダイナマイト関西に関してはベルキッス(ボクが所属しているプロダクション)に確認済みとのことで、これに関してはボクはベルキッスからも聞いていなかったので、どちらに対しても驚いた。そしてNETAJINに関しては、

 

「NETAJIN」に関しては自社タレントのライブDVDとのことで、こちらにも許可なしに配信されてました。

すみません。

 

と。マネージャーにすら、当然陣内本人にすら確認も無しに配信されてたというじゃないですか!自社タレントの事はまぁ自社でどうにかして貰えばいいので、外野から何もいう事もないですが、自社タレントでも、ましてや社員でもないボクはそれでは納得しないですよ普通。出る事が別に嫌じゃないから構わ無いつったら構わ無いんだけれど、問題はそうじゃなくて、何の断りもなくって事が大問題で、勝手に配信されちゃ困る立場に今ボクがいたらどうするんだという事ですよ。他にも関係者で映ってる方も多く、中にはすでに業界を辞めている人もいるんですから。

ここでボクが、DVDになる事は承知してたけど、配信は聞いていない、寝耳に水だ!と配信を止めて欲しいと言ったらどうするんだ。だいたいその配信の担当者から謝罪の連絡も無いんだからヘソ曲げても知らないよホント。

また、よく似たケースで、あるバンドがレーベルに勝手にベストアルバムを出されたことに対して納得がいかずレーベルを変えたなんて事例は多々ある。

なぜここまでボクが怒り心頭かというと、以前にもこれに似たというか、これ以上にひどい事があったからで、全く反省の色なしな事にも腹を立てている。

数年前、正確には2009年の2月に出版されているから2008年頃の話だと思うが、当時吉本の広報が編集を行ってたマンスリーよしもとという冊子のコーナーのデザインと編集をしていて、ブラックマヨネーズM-1を取るはるか昔、まだbaseよしもとのレギュラーにやっとなったかくらいの時期に、このマンスリーよしもとへ連載を依頼したのがボクだったのです。たむらけんじさんが大阪から東京に出たタイミングで、これまでbaseよしもとのページに連載をしていたんだけれど、別のページに移動したので、コラムのスペースが空くので、誰か連載できる人はいないかという相談を受け、楽屋でブツブツいうブラマヨの吉田くんの話が面白いからぜひ吉田くんに書かせてあげて下さいと、当時の編集長に懇願したのだ。それで最初はシブシブだった編集部も内容の面白さに連載が決まり、しばらく連載を続けていた。当時はまだ原稿用紙に手書きだったモノをボクがテキストに起こしてデザインして入校をしていた。それから2005年にM-1を取り、一躍全国区になり、すっかりそんな連載もしてた事も忘れたかのような2008年に突然広報のTさんからメールで、

「あの連載の原稿残ってますか?残ってたらテキストデータを送って欲しい」

との趣旨のメールが届いたんです。この時点で、ははぁ〜んこれは単行本化するなと薄々感じてはいたんですが、そんな事一言もなかったので、まぁバカ正直にテキストデータを送ったんです。それからしばらくして「ブラックマヨネーズ吉田敬のぶつぶつ」は出版されたのですが、それすらも知らされず、献本すら無く、あぁ吉本のやることはアコギやなぁと思った過去があるから、今回のこの件に関しても非常に頭にきて仕方がないのです。

こうなるともうこれまでしてきたことや、これからするかもしれないことまでもいいように使われてしまうんじゃ無いかという恐怖症を引き起こしてもおかしく無い。これが原因で全ての活動がいいように使われてしまうんじゃ無いかと思い込み、何も出来なくなっても不思議じゃ無い。1度ならず2度までも。2度あることは3度ある。必ず次もあるんじゃ無いかと思うとボクは夜も眠れません。昼間ねるからいいんだけど。いい加減こういう体質は改善して欲しいね。そうちゃんと夜寝られる体質をね。チャンチャン

 

せめて一言、筋を通して欲しいですよね。

Amazonプライム・ビデオ

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ブラックマヨネーズ吉田敬のぶつぶつ (ヨシモトブックス)

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スターウォーズの何を観るかじゃなく、スターウォーズに何を観るかだ!

スターウォーズ最後のジェダイの2回目を観てきました。何か納得していなかったんだろうなと2回目を観終わった時に思いました。観に行く時は、この前は1度だけだと分かり兼ねるなぁと云う思いが有ったから、いい時間にやってたら観ようかなという軽い気持ちでした。だって渋谷で観たんですが、そもそもTask have funのDVDのリリイベで渋谷に行ってたので観るつもりは全く無かったんです。何だったらすぐ帰ってDVD観ろよと思いつつ。しかし思いの外早く終わったので、丁度始まるくらいかな?と映画館を覗くと正に今始まったトコ。ま予告やらなんやらで2〜30分は平気で始まらないので本当に丁度いいと思って観ることに。しかし、予告とかCMの時間って年々長くなってるんじゃない?前にONE PIECE観に行った時に、いよっ!待ってましたと登場してほしい主役のルフィーがポップコーンの宣伝で出てきたのにはゲンナリしたね。オイオイ、今から登場を楽しみにしてたのに、何だよって。

で、始まってみると1度目では気付かなかった、いや、単に見落としてたのか色々見えてくる箇所も多く、輪をかけて楽しんで観てました。あまり前のめりにならずに観た方がいいんだなと思いつつ。何でもそうですが、前のめりになりすぎて、近づきすぎちゃって俯瞰出来なくなって視野が狭まるのはよくないよね。

前回ディズニーだからか、ペンギンみたいなキャラ、ポーグがなんかあざといなと、思ってたんだけど、やっぱりだなぁ。ただただかわいいんだよねぇ。Gがかかってて窓に張り付く感じとか、チューイが丸焼きにして食べようとしてるトコでギロっとする感じとか。絶対スピンオフ作るよあれで。てか、サブキャラのストーリーが見えてくるのがスターウォーズの凄いトコだよね。それをも見せてる。しかもディズニーになったからか尚更キャラのディティール上がってない?元々スターウォーズは世界観も個々のキャラもふわりとした中でも核はあって、シリーズと共に次第に骨太になった感じはあるね。特にボバフェットなんか、当初は本当にただのサブキャラだったのにここまで人気になると思ってなかったと何かで読んだな。『エピソード5/帝国の逆襲』からの登場なのに、『エピソード4/新たなる希』の望特別編以降は合成で登場してるってよ。ここ最近のサブキャラは既にカッチリ出来てる気がする。ただそう云う作り上げられたキャラクターでもハズすパターンもあって、狙ってないけど人気出たみたいなのがやっぱり好きだなぁ。今作でボクが好きなキャラクターはケアテイカーで、ルークの住むアク=トゥクーの住人で、数千年に渡って島の建物を維持してる修道女のカエルみたいなヤツ。レイがブラスターを暴発させたと言って壁を壊した後現れて、怪訝そうに見つめるレイに建物を守ってるとルークが説明したんだけど、そのルークはもっと派手に建物壊してたけどね。あと手押し車で資材かなんか運んでる時に、レイがライトセーバーで切り倒した岩が直撃するシーンは面白かったね。1番好きなシーンかも。あの表情がたまんない。

と、スターウォーズの何を観るかも楽しめるんだけど、本質はスターウォーズに何を観るか!で、行間というか、本にもなってるスターウォーズ禅の教えみたいに、人生の教訓的なまた、永遠のテーマを勝手に読み解くのもまた面白い。

と、2回目はサブキャラばかり見てたかも。吹き替え版の3回目は何を見るのかな。

最後のジェダイ

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スターウォーズを見てきました。最後のジェダイ。ネタバレありますので、注意です。ちなみにボクはネタバレしてても気にしない派ですが、極力情報を入れずに観に行きました。もひとつちなむとせめてエピソード7くらいは観てからの方がいいかもです。

 

さて、エピソード8最後のジェダイ、見る前から賛否両論だと言うことは耳に入って来てました。前作エピソード7フォースの覚醒はまぁこれまでのおさらい半分、いいとこ取りのまぁそうなるかという、冒険味の少ない感じで。その後のスターウォーズストリーののっけから、おいおい大丈夫か?大丈夫か?だったのが、ストーリーが進むにつれスターウォーズになっていく様がたまらなく、結果良かった。ま、スターウォーズで何をされてもボクはそれがスターウォーズだと鵜呑みに喜ぶ派なので、どう転んでもスターウォーズなんだが。

で、最後のジェダイ。これがねぇ1度観ただけでは解らないってのが率直な感想で、それが全てな気がしている。これまでのスターウォーズはどれも1度観ればストーリーも印象的なシーンも残るんだけど、それが少なかったと思った。無いわけじゃない、少ないの。で、観終わって宇多丸さんの評や、YouTubeに上がってたマニアのおしゃべりなんかを見てたら、いろいろ思い出した。宇多丸さんはこれほどまでに反乱群が無能なのかよ!と怒ってましたが、確かに。あと無駄な無意味なシーンというかストーリーにも怒り心頭で。ボクはあの船を捨てて逃げるシーンは反乱軍の無能ぶり以上に、なんでほぼ無抵抗なのに全滅できないの?と帝国群の輪をかけた無能っぷりにハテナが絶えなかった。あと、一人突っ込んでって大爆発を起こすんだけど、宇宙空間に投げ出された感じになってんのによく息できてんなとか、引っかかる箇所が多々あったことも、1度見ただけでは理解しがたいよなぁと。

よくフォースってそんな使い方できるんだみたいに言われてるそうだけど、ボクはそこまでなんでも有りかよ!とは思わなかったんだけど、言われればそうかなぁ。あの集中放火されたルーク、ま生きてるだろうとは思って見てたらやっぱりで、さらにその上を行ってたからよしとしてます。

ディズニーになったからか、ペンギンみたいなヤツとかキツネみたいなヤツ、ルークが乳絞って飲んでたヤツとか何だろうなと思って観てました。完全に動物だからこれまででいうと帝国の逆襲でルークが寒さしのぐのに内蔵に入ってたヤツとかいたけど、あぁなんかぬいぐるみ見たいなグッズにしやすそうなのでてきたなぁと思ったり。

あとアジア系のブス、ローズっていうのか。ブスだなぁ。オカリナのブスのほうじゃん!って思いながら見てた。それがだよ、愛着ってこんな短い時間、と言ってもスターウォーズ史上最長の長さ152分でも湧くんだね。最後のほうはブスが入ってこなかったもん。これがべっぴんさんだったらその美貌に目を奪われてフィンはそら迷うよって思っちゃうけど、あのブスさ加減がまた良かったね。グッとしちゃうもん。

まだまだ細かく言いたいことも思うこともあるハズなんだけど、やっぱり1度じゃ解らないんだよ今作は。手放しで喜べていないから、賛否で言ったら否定派よりなのかもしれないけど、それでもこれがスターウォーズだと言って観せられたモノはスターウォーズとして受け取るよボクは。ってこの時点でそうせざるを得ないと思ってんじゃん!

 

写真はスターウォーズを観たあとに行った男の墓場プロダクションの忘年会に今年も来てた、めろん畑a gogoだよ。

この日はチーム陣内の忘年会

スターウォーズ エピソード8/最後のジェダイ

男の墓場プロダクションの忘年会

という流れでした。

 

 

ひとくくりにするな!

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ジャンルを細かくし、ひとくくりにする事で、あらゆる事をカテゴライズする事で、解ったようにしてる風潮は、非常に危ない。だって、解った気になっているだけで、理解していないからだ。

なんでもかんでもカテゴライズして、ひとくくりにしては網の目を細かくして生きづらい世の中になっている。もっと雑で大雑把な方が、その多種多様性に気がつき、理解が出来ると思うのに。

ひとくくりにした事で、くくられたその全てが同じように感じてても、実際はその中にだって多種多様な人がいるんだから。ガテン系とひとくくりにしたところで、ガテン系が全員ガサツで、大盛りのイメージで語られるだろうが、中には小食で繊細な人もいるだろう。ひとくくりにしたところで、人は多様なんだと言うことが見えてこなくなってしまう。だから、もっと雑で大雑把で良いんだと思う。

例えば音楽をカタカナ、ひらがな、アルファベットとカテゴライズしたとしよう。カタカナは洋風で、ひらがなは和風、アルファベットは洋楽だと間違ってはいなくても、『ア』もあれば『モ』もある。アはアメリカンな印象を受けてもカタカナ全てがアメリカンではない、だってモはモスクワっぽいかもしれないだもん。カタカナとカテゴライズしただけである種の同一性があっても同一ではない。カテゴリーが細くなればなるほど同一性は上がるだろうが、同一と勘違いして間違いが起こる。だって同一では無いんだから。

ネコとひとくくりにしても、マンチカンもいれば、シャムもいるし、ロシアンブルーだって、アメショーだっているってこと。一見どれもネコだけど、違うと。いや、ネコで例えるとややこしいな。

ひとくくりに犬と言っても、チワワもいれば、土佐犬もいるし、シャパードだってドーベルマン、フレンチブルドックだている。こうなると食べる餌の量も違えば、鼻ぺちゃで飛行機に乗れない犬種もいる。間違いはそこで起こる。

このようなことがあちこちでボヤを生みやがて大きな火事、炎上につながってしまうんじゃなかろうか。細かな齟齬の積み重ねがやがて大きな齟齬を生む。手元で2度狂ってた角度は数メートル先ではわずかなズレかもしれないが、数10メートル、数キロ、と離れれば離れるほど大きなズレになる。

もっと牧歌的でゆとりのある、アソビが必要だと。ネジを締めすぎると逆に強度が弱まるように、アソビがないといけない。大雑把であれば、”その中に”を常に考える頭になるんだから、はなっからあらゆるものを決めつけてしまいかねない過度なカテゴライズはするべきではないんだよなぁ。

で、著書『パ紋』の話を。すでに発売から1年経とうとしています。さすがに大きな書店でもなかなか探すのに苦労すると思います。基本的にデザイン系の棚にカテゴライズされていると思います。ごく稀にサブカルやタレント本の棚にカテゴライズされてたりもしますが、デザイン系が多いです。しかし元々パ紋というモノが無かったモノなのでどういうカテゴリーに収めるかとなった時に、まぁデザイン系に置かれたんだとは思いますが、読んでいただければ解るとは思いますが、単なるデザイン集でもなければ、デザイン本でもないんです。読めるデザインとでもいいましょうか、そもそもデザインとはそういうモノだとは思うんだけど、超視覚的読み物というのか、あらゆるデザインにはその意味があるわけで、それをもう少しだけ言葉よりに図案化した人物伝でもあると思っているんだけれど、まぁそこまで理解して手に取ってとは言いませんが、開いてみて「なんだコレ?」と思ってもらえたらいいなと思っているんですが、そもそも書店の棚からすでに消えつつある状況ではそれも難しい。日々(と言いつつなかなかその時間を作れない日々が続いてたりもして遅れていますが)ツイッターで最新作をアップしてたりするのでそれを入り口に少しでもというか、将来的には紫綬褒章とか、文化勲章が欲しいので大々的にもっと本も売れて欲しいけど、2冊目とまではまだいいませんが、せめて増刷かかって、帯をぜひねむきゅんに書いて欲しいので売らなくちゃならんのですよ。

 

パ紋

パ紋

 

 

23日の文学フリマ(ブースF-18)に出展するので来てね!読書の晩秋!

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文学フリマに出展しようと決めたのは初夏だったかしら。これまではデザフェスにパ紋を出してはいたんだけど、パ紋じゃないモノを、ってか文学を出そうと。

決めた時からすでにこれまで書きためた曲の歌詞を詩集として出そうと決めてたのね。

その時点で10曲弱はあったから、それだけでもまぁ形になるだろうと。で、先週急いでデザインと編集作業をしだしたら、その直前に作りかけてた曲ってか詞も完成させようと、デザイン作業より、詞を完成させる方に時間がかかっちゃったりなんかしちゃったりもしたんだけど、なんとかできて、12編の詩集になりました。A5版16ページの無駄にフルカラーなので、ぜひみなさんこぞってご家族、お友達、友人、知人、他人の分まで買っていって欲しいです。

その後も色々作曲中のメモ書きをひっくり返してみたらまだまだ形になっていない曲がゴロゴロとあったので、これなら第二弾もすぐに出せるぞよ!

詩集というとなんだか気取ってる感じがしますが、まぁ言えば歌詞カードですわ。最初はコードも入れてたんだけど、どうにも気持ちがそっちに取られちゃって、せっかく詞を見て欲しいのに、曲として見えてきちゃうから、コードは載せ無いことにしましたが、全て曲になってるんです。そんなこと一言も書いてい無いので、全く知らずに見たらどう思うのかそこも知りたいですね。ま、全く知ら無い人が手に取るのかという問題は往々にしてあるけれど。

昔のフォーク、それこそ清志郎さんの歌詞とか、井上陽水さんや、古井戸らへんのあのころの歌詞ってスゴイんですよ。井上陽水さんの曲で「ハトが鳴いている」ってのがあるんだけど、ハトで1曲作っちゃうんだもんね、あの曲恐ろしいよホント。ハトが、ハトが鳴いているウッフッフ〜だよ。参っちゃうよホント。そのへんの歌詞世界が好きなんでかなりオマージュというか、モロ影響下にある詞がたくさんなんだけど、ホントに見て欲しいのでよろしくお願いします。明日、明後日には上がってくると思いますので、書影をツイッターにあげますね。

ほとんどの詞にネコが出てくるので、タイトルは「ネコに捧ぐ詞」としました。これは「ネズミに捧ぐ詩」という清志郎さんの詩集があるのですが、モロそれへのオマージュです。詩を詞に変えたのは、これは歌詞なんですよということで詞としましたが、「ウタ」と読んでいただいても「し」と読んで頂いても構いません。タイトルだけでなく、井上陽水さんの「傘がない」の勝手にアンサーソングとして、「傘がある」って詞も載せてますので、お楽しみに!ってか歌ってるのはっつけておきますわ。

それからクリープハイプの「二十九、三十」のメロディーでってか替え歌の新曲を思いついちゃったのでそれも掲載しているんですが、当初は「風になりたい」ってタイトルだったんですが、これまた勝手にアンサーソングとして(答えになってないんだけど)「三十一、三十二」ってのがありますので、これまた必見!ぜひこれは読んでいただきたい。

詩の何かしらの賞があるんなら出したいくらいの自信作なので、本当によろしくお願いします。

ついでにパ紋の書籍と、写真のプラ板も持って行きますので、こちらもよろしくお願いします。

c.bunfree.net

 

元ネタはコチラ 

ネズミに捧ぐ詩

ネズミに捧ぐ詩

 

 


傘がある

 

オマケ

メルカリでカメラを買って以来ずっと女の子を撮りたい撮りたいと思っててやっと撮れる現場を見つけたので行ってきたよ。アイドルのライブでもカメラOKなんですよ!わ〜い!atMEの涼本奈緒ちゃん

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デジタルなんでバシバシ撮ってたので、めちゃくちゃあるんですが、それはまたまとめて何かしら書きます。しかしカワイイね。

メルカリの売り上げでカメラ(CanonD70)を買ったんですが、どうすれば売れるのかはnoteに書きましたので参考にしてみてください。

note.mu

 

それはみんな歌にしてるしネタにしてる

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だいたいの事は歌になってるし、ネタにもなってるもんで、これから何か全く新しいことってのはかなりの網目を縫って出てこなくちゃいけないから相当大変なんだけど、これまで出し尽くされたというか、相当言われてきたことも訳し方の違いであったり、新解釈という切り口であったりすれば、新しいこととして受け取られるわけで。要は言いようというかね、ま言う人にもよるというか。なんしか既に出ているモノが多すぎて、全く新しいモノは中々無い世の中で、それでも何かを生み出そうとする事がクリエイティブだとは思うんだけれど。

 これはどの世界でも言えることだと思うんだけれど、時代と共にその網目は細かくなる一方だと思うんですよね。医者と患者のコントを見た別のコンビが、じゃ、教師と生徒やろうとか、その二つを見たまたある別のコンビは生徒と生徒をやりだしたり。最初は対立構造であればネタになると目を付けたんだけど、それも出尽すと、今度はその並列状態での違いをネタにしたり。それも出尽すと今度は懐古的に戻ったりする。どう戻るかというと教習所の先生と生徒とか、さらに限定していく。時代と共に網目は細かくなる一方。このまま網目が細かくなったらもう出口は無くなるが、その頃には斬新な切り口で視点を変えてくるコンビが出てきたりする。過去の膨大なネタからどういったものが、どういった切り口がウケるのかを研究して出された答えなのか。

ボクはずっと昔の人という書き方はどうにもアレだけど、昔の人は、ナチュラルに面白い、素質がすでに規格外というか、そういう人ばかりだったんだろうと長年思っていたんだけど、いやいやそういう人だからこそ、たくさん見てきているんだということを方々で耳にした。なにもノートにつけて戦略を練っていた訳ではなく、と言っても紳助さんはそうしていたそうですが、ノートにつけるまでもなく、体に染み込ませて体感的にそう動いていたのではないのかなと、またそういうことが自然にできていたからこそ名を残しているんだろうと。

お笑い芸人に限らず、これは歌の世界でも同じ事が言える。中には楽曲を分解するように、どんなコードが使われているのか等、音楽をヒット曲を理論的気に分析してヒット曲を生み出していたのかもしれないけれど、昔の人ほど、それを自然に、たくさん聴く事によって自然と身についていたんじゃないだろうかと思うんです。というかそう思いたいという思いが強いですが。

大好きな清志郎さんとチャボさんなんかはその典型的な例だと思ってて、おそらく彼らはビートルズや、オーティスの楽曲を分解して研究してノートに付けるような事はしていなかったと思いたい。してたとしてもメモというか、その程度で、聴いて体に染み込ませてたと思うんです。ヒャダインさんとかつんく。さん、小室さんなどはノートに付けて研究してて欲しいし、おそらくしてると思うんだけど。

ライブの最後に盛り上がるような、こんな曲つくろうぜといってできた雨上がりの夜空にであるとか、歌詞にRCサクセションと入れて歌おうぜと出来たチャボと清志郎の最後の合作激しい雨とか、ノートみながら隙間を縫って出した曲だとは思わないもん。体が勝手に、手が勝手にそのコード押さえてたから出来たって感じがするもんな。

ま、願望が半分ありますが、昔の人は、まだ網目が大きな時代であったから、それほどビッシリノートにつけなくても網の間はすり抜けていたんだと。ところが今の人は昔に比べてビッチリ網目の細かい世界になってしまったもんだから、体感的にこれ新しいんじゃね?と思ってみたところで、すでにでている、作った時は被ったと気付きにくい状況というのもあって、ノートをつけざるを得ない社会的状況というのもあるとは思うんです。

しかしそういう時代であっても定番はやっぱり強いんです。3コードの単純な曲でもカッコいいのは山ほどあるし、ブルースなんてその限られな中で進化してるんだからそうとうなもんですよ。漫才のネタにしてもコントのネタにしても定番あってこそで、踏まえてどこまで飛躍するかってのもあるから。ダチョウ倶楽部がずっと熱湯風呂に入っているのもやはり定番は強いからで、新喜劇が毎週土曜日のお昼に(関西)放送されているのも定番が強いからで。しかし新喜劇なんかもやれベタだ、定番だと言われてても今のを見るとちゃんとその定番の枠組みの中でも新しい事をしてるんだよね。

一番いけないと思うのは、あぁ、そのパターンか。とそこで思考停止してしまう事だと思う。咀嚼する前に、食わず嫌いをしてしまう事の方が新しい芽を摘むというか、気付かずにスルーしてしまう行動ほど悲しいものはない。入り口はあぁそのパターンかと思ってもちゃんと見たらなんて斬新なことしてんだ!と驚くこともあるから、やっぱり、ノートつけるにしてもそれはちゃんと見なくちゃいけないし、ちゃんと見るというのはそういうことなんだと。それはノートに付けなくても体が覚えるわけだから。

と、ドキュメンタルのシーズン2まで見て思いました。いや〜スゴイね、ドキュメンタル。無茶苦茶だよ。ここ最近は寝る間際にドキュメンタルを見ながら、終わったら、談志さんの落語を見ながら寝落ちの毎日です。

 

 

 刑事ゆがみ

タイムスリップの解明

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よく金曜日なんかに「あれ?今日、日曜日だと思った!」とか、「あ、まだ金曜日か!」なんて曜日の感覚が狂ってしまう事ってあると思います。吟じてませんが。こういった出来事はなぜ起こるのかボクは知っているんですが、あまり知られていない事実だと思うのでここに書いておこうと思います。(あまり人に言わない方が身のためですが)

答えはすでにタイトルにもあるように、ボクはこれはタイムスリップによって起こった、心と体の時間的感覚の差異から生まれる勘違いだと思ってるんです。この事を説明するとデジャブも納得がいくんです。どういう事かと言うと、身体的な疲労の感覚で、曜日、つまり日にち、時間をを超えてしまう、間違えてしまうという事です。例えば歩いた記憶は無いが、体の疲労の程度で歩いていた感覚になってしまって、曜日をまたいでしまった感覚になると。逆に体の疲労が思ってたより少ないがため、時間の経過が無いものと勘違いしてしまうと、「まだ金曜日か」となるんじゃないかと。

身体的な疲労があるにもかかわらず、時間は進んでおらず、おまけにその時の記憶もない。これは間違いなくタイムスリップして時が戻ってしまっている。つまり体は覚えているが、心が覚えていないという状態はこうしたタイムスリップによってもたらされています。そしてその覚えていなかった事をもう一度体験する時に、あれ?これ体験した事がある?というデジャブを引き起こしているのです。

しかしこのタイムスリップやタイムトラベルには厳しいタイムパトロールの監視の目が光っているので、基本的には記憶は消されています。これによって、疲れなどの記憶も消されるハズですが、まれに身体的な疲労の記憶が残ったまま戻されてしまう時に、この「あれ?今日、日曜日だと思った!」という事になるのです。

ここで疑問に思うのはタイムスリップがどのようにして起きるのか、また行われているかだが、これは先にも述べたように、タイムトラベルには厳しいタイムパトロールの監視の目が光っているため、詳細をここに書き記す事は許されない。たとえ閲覧数が数人でも。そもそもタイムトラベル法によってそんな事を書き記そうもんなら、永遠にタイムトンネルに閉じ込められてしまう。ま、基本的にその記憶は完全に消されているので、覚えているハズもないんですが。

さてここでもう一つ疑問に思うのが、その監視の目とは一体なんだ?ということだと思われると思います。そうです、一体誰が、いや何に監視されているのかみなさん疑問に思ったことでしょう。それはとても身近にある、いや居るモノなんです。みなさんもごく身近に感じていたり、中には飼われている方も多いと思いますが、それはネコです。ネコがそのタイムパトロールの監視の目をしているんです。犬じゃないんです、ネコです。昔は犬もその監視の目の役割をしていたと聞きますが、近年はほぼネコの独壇場だと聞きました。昔は野良犬もあちこちに居たのを40代の方なら身に覚えがあることでしょう。しかし近年野良犬の数は激減というよりほぼ見かけなくなっていませんか?そうです、ずっとタイムパトロールをしていた犬ですが、その役目をネコに奪われたため、野良で生活する必要がなくなったのです。現在はネコがこのタイムパトロールの監視をしています。余談ですが、♪暗い中でもネコの目は光る〜♪とあの忌野清志郎さんも歌っていました。街中でも部屋の中でのどこでも監視しているのです。一説には現世で徳の高い行いを続けていると来世ではネコになれると言われています。というかボクが言っているんですが。なぜエサを貰って寝ているだけで許されるんだろうって思ったこともあるでしょう。それは前世でとても徳の高い行いをしていたからネコに生まれ変わってちやほやされたり、エサを貰って寝てるだけでいい生活が出来るのです。悟りの境地とはつまりネコに生まれ変わるという事なんです。

 

Memphis

Memphis

 

 

少々話がそれてしまいましたが、しかしこれらのネコの行動は人の目に見える行動であって、本当はこのタイムパトロールの監視をしているのです。どんなに寝息を立てていても、物音一つで起き出してすぐに行動が出来るネコにしかこのタイムパトロールは務まりません。もちろんこれほどまで人間社会に溶け込んで密に接していられる動物は、役目を終えた犬を除くとネコか小鳥以外に居ません。小鳥もなんらかの使命を受けて人を監視しているに違いはありませんが、その監視の対象はタイムトラベルではないとボクは思っています。それは最大の弱点、鳥目です。暗い中で目が見えない、これは人を監視するに余りにも不適合ではあると思いませんか。だからタイムパトロールはネコにしか務まらないのです。

おそらくここまで知ってしまったボクはもうネコに取り込まれてしまっているので、これからは人の見方をするというよりもネコの見方につく事になるでしょう。そうです、近い未来、ネコとヒトとの全面戦争が起こる未来もあるのです。これはまだネコに消されていないボクの記憶なんですが、見てしまったんです、ネコとヒトとの全面戦争を!しかしこの記憶が消されていない事を踏まえるとおそらくこれはボクの見た夢でしょうけどね、ちゃんちゃん(って夢オチか〜い)

ま、夢はバクが食べてくれるんだけどね。その話はまた今度(書く気はないけど)


猫の手も借りたいから借りた結果 お米をとぐ猫

 

 

パ紋

パ紋