いらっしゃい、店長ですみません。

2018年5月5日より新高円寺にオープンした水道橋博士のお店「はかせのみせ」の店長日記。

それはみんな歌にしてるしネタにしてる

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だいたいの事は歌になってるし、ネタにもなってるもんで、これから何か全く新しいことってのはかなりの網目を縫って出てこなくちゃいけないから相当大変なんだけど、これまで出し尽くされたというか、相当言われてきたことも訳し方の違いであったり、新解釈という切り口であったりすれば、新しいこととして受け取られるわけで。要は言いようというかね、ま言う人にもよるというか。なんしか既に出ているモノが多すぎて、全く新しいモノは中々無い世の中で、それでも何かを生み出そうとする事がクリエイティブだとは思うんだけれど。

 これはどの世界でも言えることだと思うんだけれど、時代と共にその網目は細かくなる一方だと思うんですよね。医者と患者のコントを見た別のコンビが、じゃ、教師と生徒やろうとか、その二つを見たまたある別のコンビは生徒と生徒をやりだしたり。最初は対立構造であればネタになると目を付けたんだけど、それも出尽すと、今度はその並列状態での違いをネタにしたり。それも出尽すと今度は懐古的に戻ったりする。どう戻るかというと教習所の先生と生徒とか、さらに限定していく。時代と共に網目は細かくなる一方。このまま網目が細かくなったらもう出口は無くなるが、その頃には斬新な切り口で視点を変えてくるコンビが出てきたりする。過去の膨大なネタからどういったものが、どういった切り口がウケるのかを研究して出された答えなのか。

ボクはずっと昔の人という書き方はどうにもアレだけど、昔の人は、ナチュラルに面白い、素質がすでに規格外というか、そういう人ばかりだったんだろうと長年思っていたんだけど、いやいやそういう人だからこそ、たくさん見てきているんだということを方々で耳にした。なにもノートにつけて戦略を練っていた訳ではなく、と言っても紳助さんはそうしていたそうですが、ノートにつけるまでもなく、体に染み込ませて体感的にそう動いていたのではないのかなと、またそういうことが自然にできていたからこそ名を残しているんだろうと。

お笑い芸人に限らず、これは歌の世界でも同じ事が言える。中には楽曲を分解するように、どんなコードが使われているのか等、音楽をヒット曲を理論的気に分析してヒット曲を生み出していたのかもしれないけれど、昔の人ほど、それを自然に、たくさん聴く事によって自然と身についていたんじゃないだろうかと思うんです。というかそう思いたいという思いが強いですが。

大好きな清志郎さんとチャボさんなんかはその典型的な例だと思ってて、おそらく彼らはビートルズや、オーティスの楽曲を分解して研究してノートに付けるような事はしていなかったと思いたい。してたとしてもメモというか、その程度で、聴いて体に染み込ませてたと思うんです。ヒャダインさんとかつんく。さん、小室さんなどはノートに付けて研究してて欲しいし、おそらくしてると思うんだけど。

ライブの最後に盛り上がるような、こんな曲つくろうぜといってできた雨上がりの夜空にであるとか、歌詞にRCサクセションと入れて歌おうぜと出来たチャボと清志郎の最後の合作激しい雨とか、ノートみながら隙間を縫って出した曲だとは思わないもん。体が勝手に、手が勝手にそのコード押さえてたから出来たって感じがするもんな。

ま、願望が半分ありますが、昔の人は、まだ網目が大きな時代であったから、それほどビッシリノートにつけなくても網の間はすり抜けていたんだと。ところが今の人は昔に比べてビッチリ網目の細かい世界になってしまったもんだから、体感的にこれ新しいんじゃね?と思ってみたところで、すでにでている、作った時は被ったと気付きにくい状況というのもあって、ノートをつけざるを得ない社会的状況というのもあるとは思うんです。

しかしそういう時代であっても定番はやっぱり強いんです。3コードの単純な曲でもカッコいいのは山ほどあるし、ブルースなんてその限られな中で進化してるんだからそうとうなもんですよ。漫才のネタにしてもコントのネタにしても定番あってこそで、踏まえてどこまで飛躍するかってのもあるから。ダチョウ倶楽部がずっと熱湯風呂に入っているのもやはり定番は強いからで、新喜劇が毎週土曜日のお昼に(関西)放送されているのも定番が強いからで。しかし新喜劇なんかもやれベタだ、定番だと言われてても今のを見るとちゃんとその定番の枠組みの中でも新しい事をしてるんだよね。

一番いけないと思うのは、あぁ、そのパターンか。とそこで思考停止してしまう事だと思う。咀嚼する前に、食わず嫌いをしてしまう事の方が新しい芽を摘むというか、気付かずにスルーしてしまう行動ほど悲しいものはない。入り口はあぁそのパターンかと思ってもちゃんと見たらなんて斬新なことしてんだ!と驚くこともあるから、やっぱり、ノートつけるにしてもそれはちゃんと見なくちゃいけないし、ちゃんと見るというのはそういうことなんだと。それはノートに付けなくても体が覚えるわけだから。

と、ドキュメンタルのシーズン2まで見て思いました。いや〜スゴイね、ドキュメンタル。無茶苦茶だよ。ここ最近は寝る間際にドキュメンタルを見ながら、終わったら、談志さんの落語を見ながら寝落ちの毎日です。

 

 

 刑事ゆがみ